小倉市誌上編「寛永以前の小倉」と頻出語句

小倉城01

小倉市誌上編二章「寛永以前の小倉」の一部を書き起こしました。資料に使うところだけ起こす予定だったのですが、興がのってしまって……。難解な旧字体と漢語は()内に新字体か読みを併記。本当は章終わりまでいきたかったけど、序盤で力尽きました。中途半端ですみません。

底本はこちら↓

小倉市誌(国会国立図書館インターネットライブラリー)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965697

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小倉市誌 上編

小倉市誌 第二章

寛永以前の小倉

古代の小倉

小倉の事、鎌倉時代以前には所見なし。續(続)日本紀聖武天皇天平十二年太宰少貳(少弍)藤原廣嗣挙兵の條(条)に板櫃營(板櫃営)の事を記し、板櫃河畔に戦有し事など記したれど、小倉の名は見えず。延喜式に社(示+土)崎、到津の二驛を載す。板櫃營といい到津驛という。何れにせよ今の到津八幡社のある到津附近にして、中古太宰府に上る要路に當(当)り、後にはその繁栄下流に移り、終に今の小倉となれるもののごとし。地形も亦(また)古今同じからず。往昔は海岸線深く内に入りしものなるべし。

因に云ふ。大槻如電氏の説に社崎はコソサキにして、今の門司の地なり。鎮守甲宗八幡の甲宗は卽(すなわち)コソを訛れるなり。筑前の獨見驛の獨は、成の草體(草体)を俗體(俗体)の獨の字に書き僻めたるにて、成見とあるべきなり。卽(即)ち鳴水にして、今の黑崎(黒崎)の地なり。中古京より太宰府に下るに、門司より到津を經(経)、黑崎に到ると。

豫章記(予章記)に「正平廿一(二十一)年豊前國(国)小倉に押下て案内申被」又「同十一日[○正平二年二月]豊前小倉於策爲(為)」とあるは、盖(けだ)し小倉といふことの書に見ゆる古きものなり。吉川記に慶安五年六月の古文書を引けるが中にも、小倉の字見ゆ。大内家壁書に文明十九年四月廿四(二十四)日赤間關(赤間関)、小倉、赤阪の渡賃の事を記せるは、卽(即)ち大内氏が豊前地方に勢力ありし時、規定せるものにして、此の地方の史料として面白ければ、ここにこれを引用せん。

條々(条々)

赤間關(赤間関)、小倉門司赤坂のわたりちんの事。

一せきと小倉との間三文 一せきと門司との間一文 一せきと赤坂との間二文 一よろひからびつ十五文 一長からびつ十五 一馬一疋(匹)十五文 こし一ちやう十五文 一犬一疋(匹)十文

以上八箇條(条)

右わたりちんの事、前々より定をかるるといへども、舟方ども御法をやぶり、ぶちよくをかまへ上下往來(往来)の人にわづらひをなすと云々。所詮關舟(関舟)はこくらにて一人別に人あつる事あるべからず。先年色々御尋之時、此あげせんの事は申出さぬ事也。只今關(関)の町太郎右衛門、次郎三郎、阿彌陀(阿弥陀)寺領次郎左衛門、初而申上者也。彼是に付、かく御法を定をかるる所也。風波の時いひえるままに舟かたども、ちんを取によりて、毎度御法やぶるるなり。たとひ風邪波のときも、此御法たるべきなり。若此御法をそむき、わたるの人をなやます事あらば、其舟かたを、關(関)小倉之代官の所へ御引渡、代官之所より山口へ注進致たらんとき、子細たづねきはめ切せらるべきなり。仍下知如件。

文明十九年四月廿(二十)日

小倉城の沿革を記せるもの、春日信映の記せる「倉城大略誌」以下數種(数種)あり。盖(しか)し足利時代の城主の變遷(変遷)など記せるもの概(おおむね)杜撰なれども、然ればとて今これを探究して、正確の事實を知ることも難ければ、ここには姑(しばら)く先輩の記述を其の儘に引用して參考(参考)に供すべし。

【倉城大略誌】

豊前國(豊前国)親矩[のちに企救とす]郡到津鄕(郷)小倉之城[俗傅に古へは勝山の城と云、又勝野の城とも云ひし由]は古城也と而巳(のみ)云、其の開闢時代を傅(つた)へず。
或る傅に、文永頃は緒方大善亮惟重、豊前小倉の城に居り、智謀仁勇を以て威を震ふと也。其の子緒方八郎惟爲(惟為)、其子緒方石見守惟尚、相續(相続)して在城たりしが、延慶年中水原備中守定允押して來(来)て城を攻む。城兵精力を盡(つく)し强戰(強戦)するに因て、寄せ手溜り兼、旣(すで)に敗走に及び、城中に逆心の者有て、矢倉に火を放つ。風烈しくして暫時に燒失(焼失)し、死する者居多也。惟尚は煙中に紛れ出で、筑前國(筑前国)鞍手郡に落行、外戚の親族也し原田九郎左衛門種任を頼み、暫(しばし)茲(ここ)に在り。名を久見幽月齋(斎)と號(ごう)す。其後、諸所を漂泊し、伊豫國宇和島に至り、茲(ここ)に於て終りしと也。

或傅に曰、元徳二年庚午黑崎土佐守景經(景経)、小倉に城を築き、是に居りし處(ところ)に、建武元年甲戌春長野七郎貞家押寄せ、日々合戦なりしが、寄手强(つよ)ふして、城危うきに及び、城兵多退散するにより、景經(景経)爲方(せんかた)なく自害す。其息修理之進景之は、奮戦して死せり。貞家城を攻め落し、卽(即)居城とす。其嗣長野但馬守敎家(教家)が時に至り、慶永年中大内氏の爲(為)に亡び、夫(それ)より大内家の持城と也。杉左馬助重兼、杉主膳重之、杉宮内左衛門重植、小林六郎兵衛光任等追々城代たり。嘉吉二年壬戌太宰小貮(小弍)頼冬寄せ來(来)り、鬨の声天地も動かす如くにして急りに城を攻む。城兵微(かすか)にして防戦叶はざりしによりて、弘政密に退城し、防州に引き取りしにより、頼冬城を取り、番兵を置き、是を守らしむる事、凡三四ヶ月なりしが、原田近江守種虎多勢をして番兵を追ひ散らし、入城して是に居ると也。其後の事分明ならず。文明の頃は菊池出羽守武村入道一玄、其子菊池荒太郎武陸在城也。延徳二年庚戌八月臼杵掃部來(来)て城を圍(囲)み、息をも繼(継)がず喚き呼んで是を攻めしに因て、城兵必死と成て爰(ここ)を防ぎしか共、寄手猛勢にして、防戦に利あらず、菊池勢盡(つ)き、既に城敗れ、一玄は臼杵が臣別府某に討れ、武陸は出城し、敵中に乗り込みしに、敵槍にて馬を突きたるに因て、直ぐに飛下り、刀を以て群る敵を切り拂(はら)ひ、敵の騎将大貫九郎兵衛と云者、馬上にて士卒を下知するを、左の膝より切て落し、尚勇戦して死す。武陸子菊池平蔵十六歳なりしが、里見源三郎介錯にて切腹也。城落るに因て、高直入城し、文龜(文亀)癸亥冬病死すと云ふ。永正年より享禄に至り、小野田兵部少輔種尚茲(ここ)に在城し、享禄四年辛卯四月より天文年間、長野壹岐(壱岐)克盛在城の由。弘治永禄の頃、大内の家族冷泉五郎高祐(示+右)茲(ここ)に居ると也。永禄十二年己巳十月高橋參河守(参河守)鑑種ともあり。秋種小倉の城を攻め取り[此時當城に誰誰人ありしや。冷泉高祐にてありしや。一説には大内家の持城にてありしと云へ共、今分明ならず]是に在城し、[或説には弘治二年丙辰三月初め高橋參河守(参河守)鑑種小倉城に入るとも云ふ]武名を擅(ほし)ひままにし、威を遠近に振ひし也。而るに天正七年己卯二月鑑種、同國(同国)田川郡香春[或は賀春とも]嶽に取りかけ是を攻む。城将千手美濃守重盛[重俊ともあり]防ぎ戦ふ事數日(数日)也。鑑種は不日に攻め落すべしと思ひしが、案に相違し攻めあぐみしが、或夜大風雨なりしを幸に、不意を討つべしと思慮し、深更に及び、急に人數(人数)を進め、寔(まこと)に山も崩るるが如く、鯨波をあげ攻め掛る。城中には思ひがけなき事なれば、仰天し騒ぎ立、上を下へと顚倒す。寄手は競ひ進んで攻め寄りて、旣(既)に城門を破りし也。城の老臣戶村(戸村)内記、茲(これ)に在て防ぎしが、寄手の足輕(足軽)頭志井久左衛門に討たれし也。重盛は少しも動ぜず。下知あれども、人皆周意騒ぎて有りし故、下知に應(応)ぜざれば、重盛力に及ばず。十方(とほう)に暮て居たりし處に、笹原八左衛門走り來(来)て、御運盡(つき)ぬれば、急ぎ御自害有るべしと云ひ、自害す。重盛心得たるとあるや否、自害せり。終に落城するにより、鑑種是を居城とし、小倉の城には小幡玄蕃、宮島郷左衛門を城代とするなり。此年四月廿四(二十四)日鑑種死せり[法名安全寺笠心宗山]其嗣高橋左近大夫元種[鑑種聟(婿)筑前國(筑前国)養子なり。初名九郎直種と云ふ。實(じつ)は小館の城主秋月筑前守種實(種実)の次男也]繼(つづ)いて香春嶽に在城し、小倉小倉に城代を置く事、猶元の如し。

或書に曰、香春嶽には應永(応永)元甲戌年より千壽(千手)信濃守興房在城也しが、同六己夘年(卯年)七月事ありて自害す。其息彈正(弾正)大弼高房相續(相続)し、當城に在り。爾(しか)してより千壽(千手)家代々の居城にして、大永に至る。其後の事を知らず。天文年中には原田五郎義種、同舎弟原田右衛門大夫貞親在城なりしが、永禄四年辛酉七月十五日大友親太郎義統來(来)て城を攻め落し、義種自害するに依て、大友が兵城に入り、茲(ここ)に居る。此時貞親は雲州に在陣たりしが、右の大變(大変)を聞き、急に香春嶽に歸(帰)り、速に大友が勢を追ひ退け、而して城を轉造(転造)して是に在りしを、天正元癸酉年高橋參河守(参河守)鑑種これを攻め落し、貞親自害し、其息八郎光親敗走すと也。

陰徳太平記に曰、高橋三河守鑑種、初は小倉に在城せしが、往し天正七年己卯秋賀春嶽を乗り取りけり。其此賀春嶽には千壽(千手)美濃守重盛居住せり。重盛が力者頭何某、四布の袴を式法の袴に直して着せん事を望み訟へけるに、重盛許容せざりければ、彼者本意なき事に思ひ、高橋鑑種に密に志を通じ、時節を以て引き入らせんと約す。同年九月重盛が妻室懐胎して、臨月に及びしかば、山下に下りて安産す。茲(ここ)に因て重盛接佳儀の爲(為)に、麓の館に在りけるを、好(よ)き時節也と思ひ、彼番人鑑種へ斯と告る。鑑種大きに悦び、一千騎を師して賀春嶽の麓高城寺と云ふ所に陣を取り屈產(産)の乗と垂棘の璧とを以て道を假(かり)て曰、秋月へ罷通り候。今夜一夜此所に陣を居へ候はんに、御免を蒙り候ばやと云ひ送りければ、重盛何の用心も無く、それ社(示+土)仰せまでも候はねと返答す。斯れば鑑種方便すましぬと思、其夜の夜半に忍て、三の岳へ上り、岩をころばし、枯木を敲(たたき)て鬨を作る。賀春の嶽に籠る處の兵者共、夜半に思ひ懸ざる事なれば、皆寝おひれて、太刀を捜り、鎧を求め、或は繋げる馬に逆(さかさ)まに乗て策を打、夜討と云はんとては、やれ燒亡(焼亡)よ洪水よ抔喚き叫び、子を背に負ひ、父を肩に掛、まらふとも無く、這ふともなく周意騒ぎて落行けり。重盛は高城寺の館に居たりけるが、敵賀春の嶽に乗り入ると聞き、急ぎ馳せ登らんとすれ共、敵はや城中にて充満て、味方の軍卒共は皆落失せたりければ、今は爲方(為方)なく、向ふ敵に打蒐り、剛强(剛強)に討死す。郎黨(郎党)古多部大炊助は城中に在りしが、味方悉落失せければ、討死せんと思へども、重盛幷(ならびに)妻室の形勢心許無く思ひ、向ふ敵數人(数人は)を切り伏し、麓へ下つて見れば、重盛は早討死なりければ、重盛の妻室を連て落行けり。產せし子をば乳母の小宰相懐へ入れ、外戚の祖父杵月の城主杵月入道宗固が許へ落行きける。鑑種頓(やが)て賀春の嶽へ入れ代りけるが、其後病牀(病床)に命を堕しぬ。今の九郎元種は十二歳也けれ共、剛將(剛将)の下に弱兵なき習ひとして、鑑種勇に於は、九州に名を得たりし故、家の子郎等に小御門能登守、伊東外記等を初として、何も至剛也しかば、今度中國(中国)勢の多くなるを見ても、些も臆せず、賀春の嶽に籠りけり。
下略

或書に曰。天正十四年丙戌八月吉川駿河守元春、小早川左衛門尉隆景、小寺官兵衛孝高小倉に寄せ來(来)り、城を攻る事甚だ急なり。城兵死に墜入り戰(戦)ひしか共、其寄手强(手強)ふして、旣(既)に本丸に攻め入る。城代の小幡玄蕃、宮島郷左衛門、千變万化(千変万化)に勇を振へ共、進退叶はざりしに因て、小幡は城門の側らの石に腰を掛け自害す。宮島は敵中に蒐入りしが、箭(矢)に當(当)って死す。城兵皆退去て、香春嶽に引き取る也。吉川、小早川、小寺、城に入り、暫在留ありし處に、毛利右馬頭輝元來(来)り、諸軍の面々を集め、今度の軍功を褒賞し、猶軍事の指揮有て歸陣(帰陣)なり。夫(それ)より吉川、小早川は又軍戰(戦)に赴き、小寺は城に止り在りけるが、頓(やが)て城を毛利家に渡し、諸所の城に向ひ、屢(しばしば)武勇の譽(誉)あり。

陰徳太平記に曰、天正十四年八月十六日元春、元長、隆景、經言(経言)、藝州(芸州)を立て、中國(中国)八州を軍兵を引て、豊前の小倉へ推し渡り給へば、輝元は長門の國府(国府)まで出張し給ふ。兩川(両川)頓(やが)て小倉の城を取り圍(囲)まれければ、高橋勢堪へず、城を明け退きて、賀春の嶽へぞ莟みける。依之(之に依り)彼城へは黑田官兵衛入られて、吉川、小早川の兩將(両将)は午房原に屯を張て坐しけり。

或傳(伝)に曰、天正十五年丁亥春豊臣秀吉卿、九州に進發(進発)有て、薩州を征伐あり。上洛として七月三日着陣也しが、此とき秀吉卿小倉の城を毛利壹岐守(壱岐守)儀成[本氏は森の由。初名は小三次と云ふ。名乗は諸書に出る處、皆相違す。高成、吉成、儀成、勝信、成儀此の如し]に賜り、領地[其高は文明ならず]は規矩田川兩郡(両郡)[一□か如何]に於て充行はれし也。而るに慶長五年庚子石田治部少輔三成が催促に因て、成儀攝州(摂州)大坂に馳せ往く。毛利左門、毛利彌左衛門、宮田善兵衛等留守に有て城代たり。其頃黑田如水[初名は小寺官兵衛孝高と云ふ。天正十五年丁亥秀吉卿豊前國(豊前国)京都郡仲津築城上毛下毛宇佐以上六郡を孝高に充行はる。茲(ここ)に因て孝高下毛郡仲津に新城を築き、茲(ここ)を居城とせり。天正十六年戊子五月勘解由次官に任じ、黑田氏と稱(称)す。天正十七年己丑隠居して如水と云ふ。慶長九年甲辰三月二十日卒去。于時(ときに)五十九歳なり。法名龍光院如水圓淸(円清)]同國(同国)中津に在城たりしが、馬に鞭をあげ、小倉に馳せ來(来)り、無二無三に城へ仕かけ、造作もなく城を乗り取れり。是より黑田家の持城と成るなり。

或書に曰、天正十五年丁亥七月秀吉卿、豊前田川郡香春嶽の城を犬餌九左衛門時定[小笠原家の旗下犬餌大炊助政徳嫡男なり。秀吉卿に仕へ、數度(数度)の武功有]に賜る。[此高知れず。此時代は貫文知行也。而に或説に時定が知行高は、今の石知行にしで、其高六七千石程の由]は香春嶽の近郷にて充行はれし也。此時秀吉卿の仰有りしは、九左衛門少知にして、香春嶽に在り。獨立難かるべし。毛利壹岐守(壱岐守)が門族となり、互に篤く親しむべしと有て、其旨を壹岐守(壱岐守)にも仰せ、毛利の氏を時定に授けさせられしによりて、則毛利九左衛門と號す。而るに慶長五年庚子石田三成が催促に隨(随)ひ、時定攝州(摂州)大坂へ馳せ上りしに、其時賊軍城州伏見の城を圍(囲)み、戰(戦)ひの半なりし故、直ぐに伏見に馳せ行き、速かに大手の城門に進み、奮戰(奮戦)して戰死(戦死)す。于時(ときに)八月朔日也。時定嗣毛利吉十郎定房[後に九左衛門と云ふ]香春嶽に在りしが、時定戰死(戦死)の後、石田牒書を定房が元に贈り、毛利壹岐守(壱岐守)と倶に、急ぎ大坂に來(来)るべしとなり。又壹岐守(壱岐守)も其事を定房に通ず。定房是に諾せずして、壹岐守(壱岐守)へ答へしは、石田が逆心也。以て其隱(隠)無し。親九左衛門急務に因て、其是非を辨(わきま)へず。伏見に於て不益の死を遂げ、悲しむべきは此事なり。而れば吾れ何ぞ大坂に往くべきや。壹岐守(壱岐守)是を聞き、大きに憤りて、香春嶽の城を攻め潰し、吉十郎が首を取り、軍神(示+申)へ血祭して、大坂に行くべしと軍議有る事、香春嶽へ聞へければ、定房が老臣生田三郎兵衛、佐倉源藏等相議有て、稻見(稲見)六郎次郎を同國仲津へ遣し、黑田如水へ援兵を頼みければ、如水是より急に小倉に仕かけ、壹岐守(壱岐守)を征伐すべきと有て、其の日限を極めての返答也。定房大きに喜び、則如水の指揮に任せ、香春嶽より兵を師して出馬有り。規矩郡城野原に至り陣を取る。如水は同郡湯川に來(来)りて陣を張れり。既に明日曉天(暁天)に小倉へ押し寄すべしと、双方示し合ひし處に、壹岐守(壱岐守)此由を聞き、俄に七顚八倒して、夜陰に紛れ、船に取り乗り、大坂に赴きしにより、如水是を攻るに及ばずして、城に乗り込、是を取り、暫時當城に在り。事を鎮め、番兵を置て是を守らせしめ、中津へ歸陣(帰陣)在りしと也。

筑紫軍記に曰、慶長五年黑田如水、中津より小倉取り出、香春嶽の城に押し寄する。城主毛利九左衛門は、小倉の城主毛利壹岐守(壱岐守)が一族也。今度伏見の城攻めにて討死す。其男吉十郎十七歳。家老共大將(大将)として守居せり。時に壹岐守(壱岐守)は吉十郎を廢(廃)して壹岐守(壱岐守)末子に其祿(禄)を與(あた)へ、遺跡を相續(相続)せんとす。家老共是を聞き、吉十郎遺跡相續(相続)し難き者に非ず。壹岐守(壱岐守)我欲の擧動(ふるまい)心得ずと思ふ處に、如水より降參(降参)すべしと云ひ送るにより、幸ひ哉と輙(たやす)く承引す。如水城を請(言+靑)取り、堅固に申付け、卽(即)吉十郎先鋒として、小倉に押行き、又壹岐守(壱岐守)一族家臣寄合ひて、軍評定せしが、吉十郎既に降參(降参)して、城を開き、是を渡したる上、先鋒として押し來(来)ると聞へしかば、彼の評定を止めて、一族家老共言ひけるは、加様の時の爲(為)に日來諫言申せし也、今は悔ても詮なし、日比重賓とて積み貯へ給ひし金銀米銭を取出し、諸方の持口堀矢倉矢狭間に立置て、今の用に立らるべしと窠落々々(からから)と打笑ふ。壹岐守(壱岐守)爲方(為方)なく、今は斯とや思ひけん、自ら髪を押切て、一齋(一斎)と名を改め、小倉の濱より船に取り乗りて京に上り、建仁寺の内に隠れ居たるに、程なく捜し出され、撿使(検使)來(来)て自殺すと。

武家高名記に曰、慶長五年九月黑田如水、毛利壹岐守(壱岐守)が端城香春嶽、本城小倉を請(言+靑)取る。此時壹岐守(壱岐守)は既に上方より落下て在城せしが、如水押來(来)る由を聞き、城を明け、退散すと也。

或書に曰、毛利壹岐守(壱岐守)勝信!其子毛利豊前守勝永は、石田三成に黨(党)する科(とが)に因て、四國(四国)に配流たりしが、後に至り父子共に大坂に於て、秀頼卿に仕へしと也。一説には壹岐守(壱岐守)は小倉を退去し、大坂に至りしが、如何なる故ありてや、髪を剃り、高野山へ入り隠れたりとも云ふ。壹岐守(壱岐守)事は種々多説有て、一決なし。其終る處も分明ならず。豊前守は初め市正と云ふ。秀頼卿に抜群の忠勤有るにより、秀頼卿篤く是を賞せられ、時至らば豊前一國(一国)を充行はるべきとの誓約有しによって、豊前守と改めしと也。大坂落城の日、討死すと言へども、其實を決せずと也。

慶長五年庚子十一月二日家康公豊前國(豊前国)[規矩田川京都仲津築城上毛下毛宇佐以上八郡其高三十萬石なり]に豊後國(豊後国)の内[速見國埼(国埼)兩郡(両郡)にて其高六萬石也。是は忠興君宮津に在城の時、慶長四年己亥より領せられしと云ふ]を併せ、三十六萬石を細川越中守忠興君に賜りしに因て、同年極冬忠興君丹波國(丹波国)興佐郡宮津の城[忠興君當城にては十一萬石を領せられしの由なり]より小倉の城に移らせられ、而ふして古城を廢き、改て大城を築かれ、城下を廣大(広大)に成せる大義を起こされ、慶長七年壬寅春其事を初められ、同年十三年戊申冬略整ひ、猶年を累ねて成就すと云ふ。[一説に慶長十年乙未に大成すと云とも、左にてはなし]元和七年辛酉二月忠興君國政(国政)を賢嗣細川内記助忠利君[後に越中守君と稱(称)せり]に譲られ、自らは下毛郡中津に隠退有り。三齋(三斎)君[正保二年乙酉十二月二日肥後國(肥後国)に於て逝去、法名松向寺三齋(三斎)宗立と稱(称)す]と稱(称)す。而るに寛永九年壬申忠利君、肥後國(肥後国)飽田郡熊本の城に移らせられ、五十四萬石を領せらる。同年十二月小笠原右近大夫忠政君[後に右近將監(将監)忠興君と稱(称)す。播磨國(播磨国)明石の城[忠政當城にては十萬石を領せらる]より、小倉の城に移らせられ、十五萬石[規矩田川京都仲津築城以上五郎と上毛郡の内あり]を領せられしなり。細川君の時は城下の家並いまだ連續(連続)せず。寔に豫めなりし處に小笠原君の時に至り、武家始め商家共に彌増(いやま)しに軒端建連りて、大きに繁昌する也。

とりあえず、ここまで!

小倉市誌に頻出する旧字・漢語

・缺乏 欠乏 けつぼう

・營 営 例:板櫃營

・貮 弍 例:太宰少弍

・驛 うまや

・示+土=社 社 やしろ

・當り 当り あたり

・體 体 てい

・書き僻め 僻 ひがむ

・卽ち 即ち すなわち

・卽 即 そく

・蓋 盖 盖し けだし

・關 関 せき 例:赤間關

・彌 弥 例:阿彌陀

・而 しかし

・仍 しきりに

・變 変 へん 例:變遷

・概 おおむね

・姑く しばらく

・傅 俗傅 ※いい伝えの意

・傅へず 伝えず

・而巳 のみ

・盡 盡し つくし 例:精力を盡し

・旣に 既に すでに

・燒失 焼失

・茲に ここに 例:茲にあり

・强い 強い

・爲方なく 為ん方なく せんかたなく

・敎 教

・圍む 囲む かこむ

・繼ぐ 継ぐ つぐ

・繼て 継て つづいて

・爰を ここを

・拂う 払う はらう

・文龜 文亀 ※元号

・壹岐 壱岐

・擅い ほしい

・寔に まことに

・顚倒 てんとう

・應じる 応じる

・聟 婿 むこ

・寔は これは

・實は  実は じつは

・實に 実に じつに

・千手 千壽 ※壽は寿の旧字、読みはどちらも「せんじゅ」

・卯 夘 読み方はどちらも「う」

・彈正 弾正 だんじょう

・爾して しかして

・歸る 帰る かえる

・轉造 転造

・假て かりて

・敲て 叩きて たたきて

・まらふと ※客の意

・郎黨 郎党 ろうとう

・幷 ならびに

・產み 産み

・病牀 病床

・剛將 剛将

・戰う 戦う

・千變万化 千変万化

・箭 矢 例:箭に当る

・夫より それより

・頓て やがて

・屢 しばしば

・傳 伝 でん

・稱す 称す しょうす

・于時 ときに

・隨う 随う したがう

・辨へず わきまえず

・稻耳 稲見 ※苗字

・家祿 家禄 かろく

・擧動 ふるまい

・輙く たやすく

・窠落々々 からから ※擬音語

・斯と これと

・撿使 検使 けんし

・科 とが ※咎と同意

・國埼 国埼 ※豊後国郡

・兩 両 りょう

・飽田郡 あきたぐん ※肥後国郡

・彌増し 弥増し いやまし

・只円 只圓 しえん ※能面師

・観世清廉 かんぜ きよかど

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