観た番組 NHK新シルクロード、天山南路ラピスラズリの輝き

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私が「鳩摩羅什」という名を知ったのは、2005年に放送されたNHKのドキュメンタリー「新シルクロード」シリーズでした。いま自分の中で過去何度目かのシルクロードブームがきており、この番組を改めて観返しています。今回はその第5話「天山南路 ラピスラズリの輝き」を通して知った鳩摩羅什、そして彼が訳した仏典についての記録。

「天山南路 ラピスラズリの輝き」発端

鳩摩羅什が辿ったシルクロードは、現在の国道314号線。その昔「天山南路」と呼ばれた国道314号線は、かつてシルクロードのメインルートとして栄えた道、そしてインドで生まれた仏教を東方へ伝えた「思想の道」でもありました。今からおよそ1600年前、鳩摩羅什という一人の僧侶がこの山麓を歩き仏教を広めたのです。新シルクロード「天山南路 ラピスラズリの輝き」は、その鳩摩羅什をストーリーテラーに据え、物語を進めていきます。

番組は、鳩摩羅什のモノローグから話を起こしています。番組内で引用されたモノローグは、以下引用として表示します。

私の人生は波乱に満ちたものだった。屈辱にまみれた体験、長い幽閉生活。私は三百巻の仏典を中国へと伝えた。それは玄奘三蔵という僧がインドに経典を取りに行くより200年も前のこと。中国で仏教がわずかに理解されはじめた頃だった。

色即是空 空即是色

仏教の真髄を伝えるこの8文字は私が作り出した言葉だ。地獄のような苦渋に満ちた半生を経て、極楽という言葉を仏典の中ではじめて使ったのもこの私だった。

ユーラシア大陸の中心部に広がっている巨大な盆地、「タクラマカン砂漠」。その北にはシルクロードの背骨と呼ばれる天山山脈が連なっています。鳩摩羅什が歩いた天山南路は、この天山山脈とタクラマカンの間にある緑のオアシスを東西に貫く道でした。

天山南路ルート図解

砂漠の向こうに広がってきた緑の町、ここが私の生まれ育ったクチャだ。天山南路最大のオアシスで、私が生きていた4世紀には東西交易の中継地として大いに栄えていた。
クチャのオアシスには、天山山脈に源を発する川が幾筋も流れ込んでいる。川の水は水路を使って四方に切りわけられ、緑の農地を作る。小麦畑、杏の果樹園、昔からタクラマカンを行き交う旅人たちの喉を潤してきた豊かな産物だ。
オアシスの中心部に、泥のレンガで出来た町並みが広がっている。

クチャは現在、その人口のおよそ9割がイスラム教を信仰するウイグル人です。14世紀以降イスラムの王朝によって支配され、住民がみなイスラム教に改心したため、いまこの町に仏教徒の姿はないといいます。しかしそんなクチャにも、かつては仏教が盛んな「亀茲国」という王国が栄えていたのです。クチャのオアシスと天山山脈との間には「チャール・タグ(不毛の山)」と呼ばれる山地があり、この場所には今も亀茲国の仏教遺跡が多く残っています。その1つが「スバシ故城」。

スバシ故城は、南北2メートルに渡る城壁に囲まれた仏教寺院の遺跡。城の中心には四角い段を積み重ねた仏塔が建っています。玄奘三蔵の「大唐西域記」には、「1400年前の古代亀茲国は100の伽藍が建つほど仏教が盛んな国であった」と記されています。

スバシ故城から北へ、不毛の山の奥深くへと一筋の道が伸びている。古代のシルクロードである。一千年以上前、天山南路はこの谷あいを通っていた。道はやがて深い山ひだの中へ消えていく。この谷を超えると目指す仏教寺院がある。幼いころから幾度となく通った道。山や谷を渡る風や水の音がまるで音楽のように聞こえた。

クチャから西へおよそ70メートル。そこにあるのはタクラマカン最大の仏教寺院「キジル石窟」。東西2キロメートルにわたって連なる断崖に、339もの石窟があります。穴の高さは大きなもので27メートル。

キジルが発展期を迎えた4世紀、亀茲国にいた僧侶はおよそ1万人。キジル石窟にある339個の石窟のうち、およそ半数が礼拝の場として使用され、残り半分がこの僧たちの僧坊として使われたといいます。僧たちは三ヶ月に1度は住み込む伽藍や僧坊を変える決まりで、その暮らしは厳しい戒律によって規定されていたとか。

鳩摩羅什は、4世紀にこのキジルで生まれ、キジル石窟で育った人です。のちに僧侶となって膨大なサンスクリット経典を翻訳し、東へと伝えることになる鳩摩羅什。般若経、法華経、阿弥陀経、維摩経……鳩摩羅什が漢語に訳した経典の数は、全部でおよそ300巻。これらの経典はやがて中国や日本の仏教の基本経典となり、日本人である私達にとっても馴染み深いものとなっていきます。

その人物こそ私、名は「鳩摩羅什」。母は白人系のキジ国の王女、父はインドからの亡命貴族だった。幼い頃から寺院で修行をはじめた。王位継承をめぐる権力争いに私を巻き込ませたくなかった母の希望で、私は9歳のときシルクロードを西へたどり、ガンダーラとカシュガルに留学した。そこで各国の王子たちと最先端の大乗仏教とサンスクリットを学んだ。

高僧の伝記を集めた書物「高僧伝」二巻の中に、鳩摩羅什の人となりを伝える「鳩摩羅什伝」があります。鳩摩羅什伝によると、鳩摩羅什は自らの死の際にこんな言葉を残しています。「我が所伝が無謬ならば焚身ののちに舌焦爛せず」。

私は愚か者にも関わらず、数多くの仏典の翻訳にあたった。だが予言する。私が訳したものに誤りはない。その証拠に、私の死後、荼毘に付されたのちもきっと我が舌だけは焼けずに残るであろう。

亀茲国がはじめて漢書に登場したのは、紀元前2世紀のこと。この頃、亀茲国はすでに北方の騎馬民族・匈奴の勢力下にありました。

中国・漢の武帝は、西域一帯を支配下に置こうと考え、西域へ軍を進めます。これにより、天山南路の中心部に位置する亀茲国は、北の匈奴と東の漢民族、2つの民族が激しくぶつかる戦場となりました。やがて亀茲国をはじめとした西域の小国に「漢に僧侶を派遣し、戦乱に明け暮れる王たちに和平の心を伝えよう」という動きが生まれ、亀茲国の僧侶であった鳩摩羅什も、この使命を受けて東へ赴くはずでした。

王の妹である母は私に向かって言った。大乗は深い教えであり、大いに中国に広めなさい。これを東の地へ伝えるのはただお前にしかできないことです、と。やがて私はその使命の中で想像を絶する苦労をすることになった。

鳩摩羅什が生まれる11年前の西暦335年、亀茲国は中国の軍に襲われ国を焼かれました。国が豊かさを取り戻したのは、鳩摩羅什が35歳になった頃です。4世紀はいわゆる五胡十六国時代と呼ばれる時代。北方の騎馬民族、そして中国も分裂を繰り返して覇権を争っていた乱世でした。

この頃、中国の前秦王朝がシルクロード交易の利権を得ようと西へ進軍し、亀茲国にも7万もの軍勢をもって攻め入りました。大軍勢に襲われた亀茲国はその1年後、国を焼き払われ、国王も処刑されてしまいます。亀茲国の王子であった鳩摩羅什は、敵の将軍・呂光に捕らわれ捕虜となりました。

私を捕らえた敵の将軍・呂光は、私を若造とみて悪ふざけを続けた。暴れる牛や馬に何度も私を乗せ、振り落としては楽しんでした。やがて捕らえたキジ王の娘を私に妻としてあてがおうとした。ついには私とその女を一緒に密室に閉じ込めたのだ。僧侶にとって異性と関係を持つことは重い罪であった。私の脳裏によぎったもの、それはよく知られていた一つの仏教壁画だった。

「降魔成道図」、魔王とその娘の誘惑を受けた釈迦が、それを退けた話を描いたものだった。魔王は娘を挑発的な姿で踊らせ、釈迦を暴力で脅しながら妻にするよう迫る。しかし釈迦は魔王の言いなりになり生きながらえるより死ぬほうがましだと誘惑を退けた。魔王に脅迫にされたとき釈迦は35歳、そして私もこのとき35歳。私は脅迫を拒み続けたが、次第に言葉はしどろもどろになり、声も出なくなってしまった。やがて私は僧侶の私は戒律を破った。

呂光は鳩摩羅什に「妻にしなければ女を殺す」と言って脅します。高僧・鳩摩羅什を意のままにすることで、呂光は自身の威光を西域の国々に示そうとしたのです。クチャから奪った金銀財宝はラクダへ積まれて天山南路を東進。普書には、ラクダの数およそ2万頭、天山南路を埋め尽くすほどであったと記されています。

軍勢によって捕らわれ掟破りの破戒僧となった私は、戦利品としての莫大な金銀財宝とともにシルクロードに沿って東へと連行されていった。目指していた長安で政変が起こったため、途中の涼州というひなびた町に留まり長い軟禁生活を余儀なくされた。知性のかけらもない将軍の話し相手をしたり、取り入って占いをしてみたりと、無為な日々を送った。王は毎日のように戦争に出ていき、ついにはどこに兵を出すべきか、戦の占いまでさせられた。17年もの軟禁の日々。せめてもの救いは、中国語を十分に学べたことである。

西暦401年、再び政変が起こり、50歳を越えていた鳩摩羅什は長安の都へと連行されます。連行された長安の都で、鳩摩羅什は新しい王朝、後秦の皇帝・姚興(よう こう)からサンスクリット仏典の翻訳を命じられます。姚興はこの当時、まだそれほど中国に根付いていなかった「仏教」という新しい思想文化で国家統治の理念を作ろうと考えました。

これまですでに中国語に訳されている経典には、実に間違いが多い。また、サンスクリットを中国語に訳すとそのリズムや文体が失われる点に、とりわけ難しさがある。翻訳は一旦噛んだ飯を他人に食べさせるのに似ている。ただ味を失わせるどころか、かえって吐き気をもよおさせるようなものになりかねない。

鳩摩羅什は、当時の中国人にはまだ理解しにくかった仏教のエッセンスを、8文字に凝縮して表現しました。それがあの有名な「色即是空 空即是色」です。

色即是空 空即是色。「色すなわちこれ空、空すなわちこれ色なり」と読みます。和訳すると「色とは別に空性はなく、空性とは別に色はない」といった意味。ちなみに、「空(シューニャ)」は、サンスクリット語で「からっぽ」という意味をもつ言葉です。

鳩摩羅什が訳した仏典の中で最も有名なものは「般若心経」。現在は玄奘訳が広く知られていますが、旧訳と呼ばれる鳩摩羅什訳の般若心経も玄奘に劣らない名訳です。般若心経は「般若波羅密多のマントラを説いた経典」です。鳩摩羅什はこの経典を「摩訶般若波羅蜜大明呪経」という題名で訳出しました。

鳩摩羅什訳の題にある「明呪」とは、マントラのことです。今では「真言」と訳されるこの言葉、鳩摩羅什や玄奘が生きた時代の中国ではその訳語が定まっておらず、鳩摩羅什は「明呪」、玄奘は「心」とそれぞれ異なる言葉をあてています。

鳩摩羅什訳の経典の中には、原典にない独自の表現が数多く書き加えられています。その1つが、日本人も普段からよく使用している「極楽」という言葉。

鳩摩羅什は、阿弥陀経に出てくる「人々に救いをもたらす理想郷」のことを、この「極楽」という二文字で表現しました。仏教を中国の人々に広く伝えるために考えだした鳩摩羅什の工夫です。また、極楽という世界を表現するため、この仏典の中に「共命之鳥(共命鳥、読みは“ぐみょうちょう”)」という言葉も書き加えています。

共命鳥とは、私が生まれ育ったシルクロードに伝わる伝説の鳥だ。 共命鳥は頭が2つ、胴体が1つ。一方の頭は昼に起き、他方は夜に起き、いつも互いにねたみ、いがみ合っていた。ついに一方が他方に毒を呑ませ、ともに死んでしまう。それは善と悪とを併せ持つ人間の心の矛盾と葛藤を象徴している。このような鳥でも極楽浄土では幸せの歌を歌うことができる。極楽とは善も悪も許される永遠の都。

そして、鳩摩羅什は自身の人生体験から生み出した思想も、仏典の中に加えていきます。それが「煩悩是道場」。

インド仏教では、煩悩をしずめることこそが理想の境地。しかし鳩摩羅什は煩悩そのものを肯定し、受け入れたのです。

鳩摩羅什は西暦413年、長安の都で没します。シルクロードを通って日本に仏教が伝えられたのは、鳩摩羅什の死から120年後のこと。京都、嵯峨野にある清涼寺には、かつて鳩摩羅什がインドから背負って亀茲国に持ち帰り、その王宮に安置されていたという釈迦如来像が本尊として祀られています。

清涼寺釈迦如来本尊
出典:Wikipedia

清涼寺に伝わる縁起絵巻によると、この釈迦如来像はインドで作られ、鳩摩羅什に背負われて亀茲国へと運ばれ王宮に安置されたものが、戦乱の中シルクロードを通って日本へと運ばれ、シルクロードの終着点、奈良・清涼寺にたどりついたとあります。

というわけで、新シルクロード「天山南路 ラピスラズリの輝き」では、古代インドで生まれた仏教が中国~日本へ伝えられた過程を、鳩摩羅什の人生とその思想を通して描いています。新シルクロードシリーズは、この第5回「天山南路 ラピスラズリの輝き」と第7回「青海 天空をゆく」がダントツで面白いので興味がある方は必見です。

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■玄奘三蔵が実際に辿ったルートは、Google マップで確認できます(以下リンク)。

【シルクロード・玄奘三蔵が歩いた道】

https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1KN2GI6CPCkmnJFHwsC_flcDGzmI&ll=32.691720971146886%2C93.71376349999991&z=5

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