作文法

ブログの三日坊主・ネタ切れを防ぐ「箇条書きと記録」の提案

「何のためにブログを書いているの?」と聞かれて、即答できる人は少ないだろう。
とくになんとなくブログを始めてなんとなく続けているだけの人は、大抵1か月も経たないうちに書くネタが尽きて更新を止めてしまうことがほとんどだ。ではブログを長続きさせるにはどうしたらいいのか?

 まずはブログを書く目的を明確にすること

ブログで取り扱うテーマがニュースやビジネス、WEBTIPの話題なら、情報源さえあればネタが枯渇することもなく、無限に記事が書けるだろう。

ソースを選ぶ必要はあるが、1からアイデアを生み出さなくても良いというのは長期的にブログを続けられる強みでもある。アイデア出しやネタを発想する時間を、その分記事の執筆に費やすことができ効率よくブログを運営できるからだ。1記事を完成させる時間が短ければ短いほどブログにかける労力は少なくなるから、仕事で疲れていても「まあ別に1記事書くくらいそれほどの手間でもないし、書いとくか」となる。

これに当てはまらないのが芸能人のブログ。
芸能人は大半が「注目されたい」という自己顕示欲を持っており、ファンもその芸能人のプライベートが覗ければ満足なのだから、何も起こらない退屈な日でも自撮り写真をアップしておけばそれだけでブログが成立する。芸能人でなくとも、自己顕示欲の強い人はよく自撮り写真をアップしている。

一方で、食レポや旅行記、日常の生活などからネタを拾い、ブログの記事を書いている人達はどうだろう。彼らは、自炊もせず食事をカップラーメンで済ませた日や、朝起きて会社に行き帰宅して寝るだけの日は、特別ブログに書けるようなネタがないので、自然と記事を書けなくなり、更新が滞ってしまうことになる。

英国作家ミルンが指摘する「日記を書く動機」とは

絵本「くまのプーさん」や英国雑誌「パンチ」への寄稿などで知られる英国作家のA・A・ミルンは、コラム集「たいした問題じゃないが」の中で「日記の習慣」についてこんな風に述べている。

ある新聞が、日記をつける習慣が廃れてきたと嘆いたところ、当然ながら、何人もの投書家が、いやいや自分は今もずっとつけていると投書をしてきたそうだ。

この投書家たち全員の日記に「『デイリー』紙に投書。日記の習慣の廃れに反論」という書き込みがあるだろう。日記は、本来、そういう些細なことを書くものなのだ。

今日人々が日記をつけない理由は、誰にも事件らしいものが一つも起きないからではななかろうか。

たいした問題じゃないが―イギリス・コラム傑作選 (岩波文庫)

ミルンは、事故に見舞われたり、事件に巻き込まれるといったような「ありえない出来事」が毎日起こるなら人は日記を書こうとするはずだ、と言っている。そして本来、日記は「とても散文的で退屈なもの」であると主張する。ミルンの言う「散文的で退屈な日記」とは、次のような内容だ。

月曜日「今朝はベッドから起き出すのが億劫で、欠勤届を出そうかと思った。だが、入浴と朝食の後は気を取り戻した。

一時半まで働き、昼食。その後五時まで仕事をし、帰途散髪する。夕食後シオドラ・ポプグッドの『男の情熱』を読む。駄作。十一時に就寝」

たいした問題じゃないが―イギリス・コラム傑作選 (岩波文庫)

ミルンの指摘はまだまだ続く。

多数の日記は、胸躍るような経験に乏しいので、内面の冒険を書き記すことになるのだと思う。

「今日ボンド通りでライオンに襲われた」と書けないにしても、せめて「今日セントポール大聖堂で疑惑に襲われた」と書く事なら可能である。大多数の人はライオンには出会わないので、何も書かないか、それともせいぜい「理髪師の硬いブラシでやられた」程度のことを書くのである。

たいした問題じゃないが―イギリス・コラム傑作選 (岩波文庫)

私もブログを始めてから、どのような事を書けばいいのか迷い、未だにテーマが一貫せず、方向性が定まらずに迷走している。何か役に立つような情報を発信した方が良いのかと思う一方で、毎日とはいかないまでも、2~3日ごとに更新するのであれば、労力のかからない、記録媒体としてのブログにしたほうがいいのかもしれないと思ったりもする。後者はミルンが言うところの「散文的で退屈な日記」だ。

ブログの参考になるかと思って作家やジャーナリスト達が残した日記を見てみても、いずれも「記録」を目的とした日記が多く、今ネット上に多く存在するブログほどユーモアに溢れてはいない。たとえば、ジャーナリスト・清皿洌の日記なんかがそうだ。

昭和十七年十二月九日(水)

近ごろのことを書き残したいという気持ちから、また日記を書く。

昨日は大東亜戦争記念日であった。ラジオは朝の賀屋(輿宣)大蔵大臣の放送に始って、終始、感情的叫喚であった。夕方は僕は聞かなかったが、米国は鬼畜、英国は悪魔だといった放送で、家人でさえもスウィッチを切った。かくも感情に訴えなければ、戦争は完遂できぬのか。

東京でお菓子の格付けをするというので、お役人が集って有名菓子を食ったりしている。役人はいかに暇であることか。

昨日、陸軍に感謝する会が、木挽街の歌舞伎座であって、超満員だった。

【復刻版】清沢洌「暗黒日記」―戦時中の言論抑圧下でのリベラリストの日記 (響林社文庫)

たとえば自分が「興味をそそられるが実はよく知らない」事に出会ったとき、記録としての日記なら「知らないがこれから勉強したい」と素直に書ける。

だが、エッセイの体裁でこれを書こうとすると、文章の中に組み込むには唐突すぎ、1つの記事として書き上げるには、かなりテーマを膨らませないといけない。そのためには、情報収集からはじめ、検証や考察、さらには自分の意見までもを書く必要が発生し、とんでもない労力が求められてしまう。毎日こんな調子では、ブログが続かなくても仕方がないかなと思ってしまう。

今はTwitterなどを使えば短い記録を残すことは出来るが、そこまでマメじゃない人はブログを「記事」としてみなさずTwitterの延長として考え、あくまで「記録」として続けると、わりと長続きするんじゃないだろうか。

私が他人のブログを見るのは、もちろん疑問やさる問題を解決しようとする目的もあるが、1つは単純に赤裸々に書かれている人の日記帳を覗き見る楽しみがあるからだ。その記事が自分にとって何のメリットがないものでも、人の生活や興味をそそられたものに触れるのは面白い。

これからのブログは「箇条書き」で書こう

記録としてブログを書くときは、形式や体裁にとらわれず、箇条書きでパパっと書いていくのが一番いい。どうしてもエッセイ風にしようとすると、文の構成を考えなくてはならず、無駄な労力を使うからだ。

それに、見出しをつけるとはいえ、複数のテーマで記事を書く時に、1段落が長いのに、話題が右へ左へととっちらかっていては、読む方も疲れてしまう。そこで登場するのが箇条書きだ。

ブログでは箇条書きの体裁をとり、気になったことを記録していくと、面白いもので日記というのは意外に続く。ただ、そもそも何があったかを覚えていられないという人にはやや不向きかもしれない。

■朝の七時三十分に起床。祇園祭の太鼓の音で目が覚める。■夜には、もやは恒例となった「花燃ゆ」を鑑賞。本日は薩長同盟の締結で、伊原剛志演じる坂本龍馬が目立っていた。伊原龍馬は「日本を洗濯」「我が成す事は我のみぞ知る」といった有名な台詞しか口にせず、脚本家の歴史知識が浅いことがまたもや露見。回想で事あるごとに映像にエフェクトをかけるのも、いかがなものか。

■23時、Kindleで「新版 決然たる政治学への道」を買い直す。良書。

箇条書き日記の書き方としては、文頭に行頭記号をつけておく、書き出しに迷ったらとりあえず起床時間を書いておく、くらいかな。特に書くことがなければ一行でもいいし、書くことがあるなら延々と書けばいい。過去の記事を見返したいときに、すぐに目的の情報にたどり着けないというデメリットはあるが、サイドバーに「ブログ内検索」を設置しておけば、この点もさして不便は感じないだろう。

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